独善BOX 

      誓約(制約?) 私はこのコーナーで正直に思ったことを話すことを誓います。

      おすすめBOXに代わるBOX、独善BOX。あらゆるものに対して、独断と偏見によって

      思ったことを語ります。その倫理基準には言及しないでください。

      

      第一回「僕は喫茶店で語らう。1」

       第二回「僕は喫茶店で語らう。2」

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第一回「僕は喫茶店で語らう。1」


「つまり例えれば、女の子と部屋に二人きりでいて、その女の子があんまりかわいく
ないのだが、どうしても欲望に負けてその女の子とヤッてしまったというべきもので
ある」
                 本文より





僕は喫茶店で語らう。


暗い店内で
灯りはちいさいのがいい。
窓際の席でなくてもいい。
音楽は小さければいい。
サボテンとお茶を飲む音楽がいい。
コーヒーは苦ければいい。
ケーキも甘ければいい。
会話も途切れなければいい。

僕は目の前の
誰も座っていない椅子をみつめている。
誰が座ったとしても、
僕は語らえる そわそわした肌を持っている。

どんなところでもいいんだ。
間隔があれば、それでいい。
このテーブルを挟んだ、背伸びを許してくれれば

僕は それだけで、
いつまでも詩が描ける。
目の前のあなたを、四角に切りとれる。

僕は語らえる そわそわした肌を持っている。


             「ブルーマヨネーズ詩集」より


 村田仁が1999年の初め辺りにつくったと思われる詩である。なんて狭い世界で
言いあいっこしてるんだと思われるかもしれないが、僕は敢えて狭い世界で物申した
いと思っている。
 

        インプレッション


 はっきり言って、この詩を読むと、どうしても思いだしてしまうのが、八代亜紀の
歌である。「サボテンとお茶を飲む音楽がいい。/コーヒーは苦ければいい。/ケー
キも甘ければいい。/会話も途切れなければいい。」なんていう、-いい、-いい、の
連続のところは、いかにも「酒はぬるめの燗がいい〜。肴はあぶったイカでいい〜」
と歌ってしまいそうになる。
 演歌と一緒にするのは、あながち見当違いじゃない。だってあまりにも似すぎてい
る。村田君は八代亜紀の歌を無意識のうちに真似てしまったのではないかと思うぐら
いである。
 描かれている中身の違いは、つまりセンスの違いだけである。酒か、コーヒーか、
それとも肴か、ケーキか、の違いである。酒といえば、やはり肴が必要である、と同
時にコーヒーにもケーキという組み合わせが、村田君の頭の中ではビジュアル的に
マッチしていたに違いない。「暗い店内で/灯りはちいさいのがいい。」なんていう
のも「灯りはぼんやり・・・」とそっくりだ。
 八代亜紀は純日本的なイメージの歌詞だが、村田仁は洋風の言葉が垣間見られる。
だが、ここで洋風VS和風という安易な構図が生まれるとは僕は思っていない。これは
村田仁という人の目を通した洋風であって、実はすごく日本人チックなのである。と
いうか日本人丸出しのセンスだと僕は感じる。村田仁自身がそれを一番よく知ってい
ると思う。
 映画や本や、そうしたものを通じて得た知識に、自分の願望を投影して出来上がっ
たものが、こういう詩に表れているのだと思う。彼自身、それがいかにも日本人的コ
ンプレックスの塊のようで、陳腐でありきたりな、よくある願望だと分かっていて
も、それを描きたいという欲望を我慢し切れなかった。
 つまり例えれば、女の子と部屋に二人きりでいて、その女の子があんまりかわいく
ないのだが、どうしても欲望に負けてその女の子とヤッてしまったというべきもので
ある。いや、もしかしたら、その女の子はヤッてしまうまでは、とてもかわいく見え
ていたのかもしれない。
 そうやって「僕は喫茶店で語らう。」という詩は、皮肉にも産まれてきてしまっ
た。しかし、「僕は喫茶店で語らう。」という赤ん坊を、正真正銘自分の詩だと認知
してしまったところに彼のおおらかさがあると言えよう。僕なら、とうに闇に葬って
いる。
 
蛇足だが、「サボテンとお茶を飲む音楽がいい。」というフレーズは、「サボテンと
お茶を飲む音楽があればいい。」の間違いだと僕は思っている。


     村田は話す相手に人を選ばず


「僕は目の前の/誰も座っていない椅子をみつめている。/誰が座ったとしても、/
僕は語らえる そわそわした肌を持っている。」
 実はこれだけ描いておきながら、喫茶店の中の目の前の席には誰も座っちゃいない
のだ。テーブルには「苦いコーヒー」と「甘いケーキ」があるのに、実は一人なので
ある。
 「暗い灯りの喫茶店」で一人、「苦いコーヒー」を飲みながら「甘いケーキ」を食
べている村田君を僕ははっきり言って想像したくない。
 しかも、頑なに「苦い」とか「甘い」とか強調しているところが、村田仁という人
の目を通した洋風であって、実はすごく日本人チックな世界観である。村田君にとっ
てコーヒーの呼び名ががアメリカンコーヒーであろうとクリスタルコーヒー(昔、村
田君がアルバイトをしていたところではアメリカンコーヒーをこう呼んでいた。)で
あろうと関係ないのである(僕もどっちでもいいが)。同じようにケーキが「甘い」
ケーキであるならば、バースデイケーキだろうと、クリスマスケーキであろうとどう
でもいいのである。なぜならば、これは単なる願望で、とても漠然としたイメージだ
からだ。
 だから、相手だって誰でもいいのだ。「途切れる」ことのない「語らい」さえあれ
ば、相手は。これこそが村田仁、最大のオナニーである。言わばこの詩は村田仁のイ
メージプレイの具現化されたものである。
 だからこそ、僕は「暗い灯りの喫茶店」で一人、「苦いコーヒー」を飲みながら
「甘いケーキ」を食べている村田君を僕ははっきり言って想像したくないのである。
人のオナニーなど見れたもんじゃない。村田君の頭の中には女の子がいても、見てい
る方には彼の気持ち悪い姿が映るだけなのである。
 
つまり、「僕は喫茶店で語らう。」は村田君の公開オナニーである。

 

第2回「僕は喫茶店で語らう。2」




「これは永遠にループして、とどまることのない彼の欲望の螺旋階段ではないか。
セックスは行為が終われば、気持ちが萎えてしまう。だが、会話には、達してしまえ
ば後は萎えるだけのエクスタシーなど存在しない。」

                 本文より




僕は喫茶店で語らう。


暗い店内で
灯りはちいさいのがいい。
窓際の席でなくてもいい。
音楽は小さければいい。
サボテンとお茶を飲む音楽がいい。
コーヒーは苦ければいい。
ケーキも甘ければいい。
会話も途切れなければいい。

僕は目の前の
誰も座っていない椅子をみつめている。
誰が座ったとしても、
僕は語らえる そわそわした肌を持っている。

どんなところでもいいんだ。
間隔があれば、それでいい。
このテーブルを挟んだ、背伸びを許してくれれば

僕は それだけで、
いつまでも詩が描ける。
目の前のあなたを、四角に切りとれる。

僕は語らえる そわそわした肌を持っている。


             「ブルーマヨネーズ詩集」より



 
          詩のオカズ

 
 「僕は喫茶店で語らう。」は村田君の公開オナニーである。
 そこには斬新な、気の利いた設定なんて必要ない。ただ、ありきたりでも、自分の
欲望を満たすキーワードさえあればいいのだ。
 イメクラの看護婦とのプレイでは、その女の子が本当の看護婦である必要はない。
ただ、看護婦が着る制服と、自分の決めた興奮する設定があれば、行為は成立するの
だ。
 オナニーにオカズが必要なように、詩を書くにもオカズが必要だとしたら、村田君
はこの「喫茶店プレイ?」をまず思い浮かべたのだろう(少なくともこの当時は)。
 「それだけで/いつまでも詩が描ける。」とはなんともおめでたいことである。で
も、多かれ少なかれ何かをやる動機とはこんなもんである。
 「どんなところでもいいんだ。/間隔があれば、それでいい。/このテーブルを挟
んだ、背伸びを許してくれれば」。間隔というのは多分、女の子とのいろんな意味で
の距離感だと思う。そういう距離感を感じることが、彼にとってはたまらなく快感な
のである。
彼にとっては(少なくとも当時の)、こういう雰囲気は少し大人的な感覚であったの
かもしれない。
 「僕は それだけで、/いつまでも詩が描ける。/
目の前のあなたを、四角に切りとれる。」。詩が描ける、というのはもう逃れようが
ないくらい、詩と絵をリンクさせている。「目の前のあなたを、四角に切りとれ
る。」なんていうのは、露骨に絵を強調させている。村田君にとって詩と絵というも
のは密接にリンクしているということが述べられているのだけれど、僕はそこでなん
だか腑に落ちない。


      ペンと筆すらオナニーの道具


 このままだと、詩を描く動機として、喫茶店で女の子と語らうシチュエーションが
ある、という説明で終わってしまうのだが、僕が腑に落ちないのは、詩を描くことす
ら、何らかの動機になってはいないのか?、という疑問である。
 確かに喫茶店で女の子と語らうのは、彼の欲望を満たすための行為だろう。だが、
それを餌に詩を描くことも、彼の欲望を満たす行為だと言うことが出来る。つまりこ
れは彼の願望の二重構造なのだ。
 詩を描くことによって、彼の中の女の子との語らいは楽しかったこととして実感さ
れて、また女の子と語らうための動機となる。女の子と語らうことは、この楽しい時
間を空間を、きわめて主観的に切り取りたい、という欲望を助長し、詩を描くことの
動機となる。
これは永遠にループして、とどまることのない彼の欲望の螺旋階段ではないか。セッ
クスは行為が終われば、気持ちが萎えてしまう。だが、会話には、達してしまえば後
は萎えるだけのエクスタシーなど存在しない。まさに「会話も途切れなければい
い。」のである。延々と会話は続き、彼は延々と「いつまでも詩が描ける。」のだ。
 これはつまり彼が詩を描き続ける動機として、機能し続ける永久機関である。た
だ、彼には女の子さえいればいいのだ。
 そう、「僕は語らえる そわそわした肌を持っている。」のだ。
 うーん、僕はそんな彼がうらやましい。