小松亮一のコラムBOX

今月のテーマ「TVゲームにおける社会的功罪 4」

 

 前号に引き続いて、TVゲームにおける社会的介入について話していこうと思っている。今回は現実世界における受動的介入が、TVゲームにおける受動的介入と因果関係をもつものかどうかの検証を軸にしたい。                              前回、それが疑われる理由として大きく二つの理由を挙げた。一つは時代の一致。もう一つは人間性の一致である。まず時代の一致を取り上げてみる。TVゲームが普及し出した頃から受動的介入者が多くなったという疑いについて考えてみると、確かにそうであると言える。しかし、それがTVゲームの影響によるものかと考えると、疑いに疑いで返さねばならない。前号で述べたが、TVゲームが普及し出したばかりの頃はゲームの自己説明が希薄で、我々がゲームにやらされているという感覚ではない。その頃のゲームは遊び道具に過ぎなかった。つまり、チャンバラごっこに使う木の枝や缶けりに使う缶のようなもので、我々はゲームを使って遊んでいた。言い換えれば、能動的アプローチによってゲームが受動的にユーザー間の社会に介入していたのである。この頃のゲームは本質的にゲーム以外の遊びと本質的に違いがなかった。これはもはやTVゲーム自体が受動的介入とは言えない時代である。

もう一つは人間性の一致である。これも相関関係があることは認めなければならないがだろう。しかし、そこに因果関係があるのかというと難しいところである。TVゲームがあるから受動的介入者が増加したのか、受動的介入者が多くなってきたからTVゲームが普及したのか、という鶏が先か卵が先か論になってしまうからである。これは最後まで誰にも分からない。しかし、社会全体に受動的介入者が増えてきたのは事実であるが、その原因がTVゲームの普及にあると考えるのは少しばかり早急である。TVゲームがなくなれば受動的介入者がいなくなるのかというとそうではないだろう。社会の中に多くの要因があり、TVゲームはその数ある要因の一つだと考えるのが妥当である。

 以上のことから、TVゲームが社会的介入に影響を与えているかという問いにはイエスである。しかし、それはないとは言えない、という意味での消極的なイエスであり、限りなくノーに近いと言える。だが、ここで先ほど述べた昔のTVゲームと現在のTVゲームとの違いについて考える必要がある。私は過去のゲームは「遊び道具」として使われていたと述べた。そこにこの社会的介入のテーマ、あるいはTVゲームの社会的功罪という大きなテーマを説くのに必要不可欠なキーワードがあると言える。TVゲームの本質は流動的である。答えは時によって変化するのだ。TVゲームにおける能動的介入→受動的介入の変遷を考えることによって、名は同じであっても本質さえ変化してしまったTVゲームと我々のこのTVゲームに対するリアクションは、今までTVゲームという名を最小公約数として語ってきたTVゲーム論を無に帰す。 次号でいったん「TVゲームにおける社会的功罪」は完結する。次号で今回最後に残された課題、TVゲームにおける介入の変遷とそれによって何が変わったか、について考える。

      

                            以上コラムでした。


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