小松亮一のコラムBOX 01'6月

 

なめくぢ 這っている
 浴室の ぬれたタイルを
 ああ こんなよる這っているのね なめくじ

 おまへに塩をかけてやる
 するとおまへは ゐなくなるくせに そこにいる

    おそろしさとは
    ゐることかしら
    ゐないことかしら

 また 春がきて また 風が 吹いているのに

 わたしはなめくぢの塩づけ わたしはゐない
 どこにもゐない


     吉原幸子 「幼年連祷」 1964
          「無題(ナンセンス)」より一部抜粋



 物事に執着することは思いのほか難しい。例えば、今から「鉛筆」について一時間
語れと言われたら、ほとんどの人は沈黙してしまうだろう。
 また、愛すべき恋人についてなら、人はいくらでも語ることができるかもしれない
が、日常のどうでもいいことについて鋭く語るすべを持ち合わせている人は少ない。
 あるいは波乱万丈の人生を送ったから、私は色んなことを他の人よりも学んだとい
う人がいる。彼らにとって平凡な人生はつまらないものらしい。しかし、平凡という
ものはどんなものなのかということを考えないまま、人生を送っても非凡でありえな
い。
 私自身は何を行なったかより、何を感じたかの方が実は大事ではないかと思ってい
る。だが、何を感じたかは自分以外には分からない。いやむしろ、自分自身でさえ危
ういと言える。
 ならば、詩を書くという行為は行動ではないかということになる。その通りであ
る。つまり、詩を書くという行為がそれほど詩人にとって重要であると僕は思ってい
ないのである。言葉なんてなかっても実はそれはそれでいいのである。更に言うなら
言葉さえなければ、詩人という差別用語はなくなって、なめくぢは塩から開放される
のだろう。
 おそろしさとは、なめくぢが目の前にいないのに、かつてそこにいたことを知って
いるということ、そしてそうしたのは紛れもない自分であるということである。
 

以上、コラムでした。 

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