小松亮一のコラムBOX

言葉を読むこと  1
 

今月からコラムBOXも新しい形式をとりたいと思っています。言葉を毎回もってき
て、それに対して自分がどう読むか、どう感じるかを書きます。
 
くるほしくなりゆくきはもおとしめず
            花紋をゑがき死なば死ぬべき
             坪野哲久「九月一日」 1930
 
 これは坪野哲久という人が書いた短歌ですが、この人はプロレタリアの短歌活動を
していて、何度も逮捕されていたようです。この「九月一日」 という詩集は当時発
禁処分になっていたようです。この短歌はとても政治的な意味合いをもっていると言
われています。
 現代風に訳せば、どれだけ惨めな気分になろうとも自分を貶めたりせずに自分のや
りたいことをしていれば死ぬことになったとしてもそれでいいではないか、という感
じでしょうか。
 それが政治と結び付けられるのは、坪野哲久のやってきたことを考えれば自然であ
るし、何にも間違ったことじゃない。でも、正しいかどうかなんていうことは誰にも
分からない。これが解釈だと押し付けることは誰にもできない。
 知識というのは言葉を読むのに必要じゃないというのは言えない。言葉は知識がな
ければ読めない。人は同じ知識を持っておらず、言葉を読むとき人は知識の中で自由
です。
 何かを知らないからといって、間違っているとは言えません。言葉は言葉としてそ
こにあるだけで、言葉は何も伝えようとはしていないように私には思えます。それを
作った人がどう思ってそれを作ったかは、その人本人にしか分からず、また本人にさ
え分かっているかどうかも怪しいものなのだと思います。私たちは詩を読むときに、
詩を通してその人の頭の中を読もうとします。それは間違えているとは思いません
が、ときに私たちは詩を読むときにその人の頭を直接覗き込んでいるのだと錯覚して
しまうことがあります。しかし、私たちは結局のところ目の前にある詩を読んでいる
のに過ぎないのであって、人の頭の中など結局のところ分からないのだと思います。
 だから、自分が作者の頭の中を覗いていると思っている人は、結局は自分の頭の中
でうろうろしているに過ぎない。
 今日も僕は自分の頭の中でうろうろしています。

                              以上コラムでした。

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